新潟町のなりたちと特徴
 
新潟という地名が記録に現れるのは戦国時代(16世紀)からで、16世紀半ばには信濃川河口の左岸にある湊町として賑わっていたようです。その頃の新潟町は現在の場所よりも海岸寄りにありました。
江戸時代になって洪水のために信濃川の流路が変化し、それまでの流路に土砂がたまって岸になりました。
明暦元(1655)年、新潟町は新たにできた岸に移転しました。それが現在の新潟の町の原型です。
移転時の町割り(都市計画)で、信濃川と平行して走る「通り」とそれと直角に交わる「小路」、都市の動脈ともいえる堀が造られ、細長い敷地に町屋が並びました。
この町割りは、近世都市の完成形ともいえ、現在の町並みにも引き継がれています。
移転後に北前船の西回り航路が整備され、新潟町は日本海側最大の湊町となりました。近代に入ってからも港町として繁栄し、戦災を受けなかったために今も歴史的建造物が多く残っています。廻船問屋や網元屋敷の建物など新潟独特の町屋は貴重な歴史の証人です。

「新潟島」という呼び方は古いものではありません。昭和47(1972)年、信濃川の氾濫などに備えて下流に関屋分水路がつくられました。その結果、分水の下流の左岸地域が島のような形になったため、「新潟島」と呼ばれるようになりました。
西大畑エリア・どっぺり坂 古町エリア・法音寺小路 下町エリア・茂作小路 古町花街エリア・東新道
旧市街エリア
 
明暦元(1655)年の移転時に、白山神社から、南北約2.1キロ、東西約0.5キロの細長い形で町割りが行なわれました。それが現在の古町・本町1〜9エリアで下町(しもまち)エリアの一部で、道路は碁盤の目のように規則的です。
町建てのとき、信濃川から堀を引き込み、南北方向には西堀・東堀を、東西方向には白山堀・新津屋小路堀、新堀、広小路堀、御祭堀をつくりました。西堀の海側には奉行所や寺院が配置されました。その界隈は寺町として現在も往事の名残を残しています。
堀は戦後順次埋め立てられ、昭和39(1964)年の新潟国体までに現在の姿になりました。堀を埋めてつくられた道路には、かつての堀の名前がつけられています。南北方向の道路は「○○通り」、東西方向は「○○小路」としています。
このエリアは江戸時代以来、船運が鉄道に取って代わられるまで湊町として栄えた町にふさわしく、廻船問屋や網元屋敷などの町屋が残されています。
さらに北側(信濃川河口寄り)の下町エリアは明治以後にモザイク状に開発され、迷路のような路地が特徴です。
古町花街
 
お座敷で芸妓の芸を楽しめる店がある街を花街といいます。かつては全国各地に花街がありました。
新潟町でも江戸時代から町のあちこちで花街が栄え、文人墨客や政財界の有力者が集まりました。江戸時代後期には新潟芸妓は芸の質の高さで全国に知られた存在でした。
古町花街は、明治の初めにつくられた東新道(鍋茶屋の前の道)から始まりました。が、明治26(1893)年の新潟大火で古町花街は焼失しました。それを契機に花街の中にあった遊郭が移転し、古町花街は一時はさびれたといいます。
しかし、大火後に整備された西新道・東新道に沿って、料亭や茶屋(貸座敷。料理は出さない)、置屋(芸妓が籍を置く家)などが軒を連ねていき、やがて古町花街は芸の街として再生しました。
その後この界隈は大きな火災などがなく、戦前に建てられた建物が数多く残されることになりました。
町建て以来新潟町を縦横に走っていた堀は戦後順次埋め立てられ、町並みは様相を変えていきました。かつて古町を賑わせた劇場や映画館も姿を消しました。が、古町花街は、変転激しいメインストリートの古町通りから一歩入った奥深くで、懐かしい町並みの名残を今に留めています。
全国で花街が姿を消したなか、古町花街は今も芸妓が活躍するだけでなく、伝統ある建物を使いつづける店が並ぶ、生きた花街です。

花街建築の見どころ
町屋とは異なる華やかな造りが特徴です。
建物は道路に直接接しておらず、塀で囲まれた前庭や玄関へのアプローチがあり、奥まった印象があります。屋根は寄棟や入母屋を用いて豪華に造っています。細部にも数寄屋風のデザインが施され、たとえば張り出し2階の、張り出し部分の上げ裏を曲面状に仕上げています。建物の中も銘木を使ったり、それぞれの座敷でデザインのテーマを変えるなど趣向が凝らされています。
玄関へのアプローチ 曲面状の上げ裏
西大畑エリア
 
新潟島は日本海に沿って小高い砂丘が伸びています。砂丘と町のあいだの地域は江戸時代以来「寄居村」と呼ばれ、幕末には畑地が広がっていました。
明治以後、この畑地と砂丘の高台は文明開化の地として開発され、学校や病院などが建設されました。官立師範学校(明治8/新大医歯学総合病院)、新潟医学専門学校(明治43/同)、明治41年に焼失した師範学校の新校舎(明治43/新大医学部保健学科)、旧制新潟高校(大正11/新大付属小・中学校)などです。
重厚なデザインの木造洋風の校舎は、この地域に、旧市街にはない西洋文化の雰囲気を吹き込みました。
開発が進むにつれ住宅建設も始まりました。良好な住宅を求める新潟市内外の富裕層が高台に本邸や別邸を構え、また官舎も建てられました。これらに、和風ですが接客部分を洋風につくる家屋が登場しました。旧知事公舎(明治42/昭和63年に新発田に移築) は和館と洋館が独立する並列型、副知事公舎(大正10/現・ネルソンの庭)、市長公舎(同/現・安吾 風の館)は和館に洋館が付属する「洋館付住宅」の初期のものです。
こうしてこの地域には、旧市街とは趣のことなるハイカラな町が誕生しました。

 

竪羽目板
下見板
せがい造り

町屋とは 町屋(町家)とは伝統的な都市型住宅をさし、元来は商人・職人の住宅でした。前面の道路に面し、隣家と接して建てられます。内部は前面の道路側をオモテ、裏側をオクと呼びます。表口から裏口へ通り土間が通り、間取りは通り土間に沿ってミセ、ザシキを配しています。


大戸(おおど) 町屋の正面入り口にある広い戸で、通り土間に通じています。まくり上げ戸、開き戸などの開け方があります。夜間など大戸を閉じた状態で出入りするための小さな潜り戸が設けられています。


下見板 竪羽目板(たてはめいた) 外壁の種類で、細長い板を横向きにし、少し重なり合うように取り付けたのが下見板、板を竪に並べて打ち付けたものが竪羽目板です。


坪庭 建物、塀、垣根などで囲まれた比較的狭い庭をさします。新潟町屋では、建物の一部を穿った形で設け、通風や採光などの役割も果たします。


丁字造り(ていじづくり) 新潟の町屋は元来は妻入りでしたが、明治になって通りに面する一部が平入りとし、奥は妻入りのままとする独特な形態が普及しました。上から見ると棟が丁の字に似ていること、地元では呼称が見当たらないことから、私たちは丁字造りと名付けました。


張り出し2階 2階の壁面が1階の壁面より通り側に突き出ています。側面の路地に張り出すものもあり、家と家のあいだを抜ける路地に独特の雰囲気をかもし出しています。


せがい造り 軒の工法の一つで、柱から出した腕木に桁をのせ、その部分に軒天井を張ったものをいいます。軒の出を深くしたり、軒先を豪華にみせるために用いられます。和船の両舷の突出部である「せがい(漢字では「船・木偏に世」)」に由来するといわれています。


高窓付雨戸 上部にガラス窓のついた2階開口部の雨戸です。雨戸を閉めても室内に採光をとるための工夫で、東北・北陸地方によくみられます。


通り土間と間取り 新潟では土間に沿って間取りがミセ→ザシキ→チャノマ→ダイドコロとなる場合が多く、ザシキには仏壇が、チャノマには神棚が置かれます。京都などと異なり、格が高いザシキが道路側に近くなっています。

張り出し2階(移築前の絵屋) 丁字型町屋

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