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【新潟カトリック教会】新潟市東大畑通一番町656
■1885年(明治18年)に、新潟市東大畑の地に最初の教会が建てられ、その後、1927年(昭和2年)当時の教区長だったドイツ人アントニオ・チェスカ師によって、新しく現在の聖堂が献堂されました。設計は、日本で16年を過ごしたカトリックの建築技師スイス人 マック・ヒンデル(Max Hinder)氏によるもので、建築様式はロマン式とルネッサンス式との折衷で木造で建てられためずらしい建物です。聖堂のオルガンはドイツのAnton Feith社製の楽器で、1929年(昭和4年)に設置され、現存する日本の最も古いパイプオルガンの一つで、現在も澄んだ美しい音色でミサなどで使われています。

【異人池】
■「柾谷小路が西大畑町の砂丘に突き当たる砂丘のふもとに、明治大正頃大きな池があり砂丘には大きなポプラがそびえたち、影を池に落として落ち着いた風景をなしていた。この池畔に明治初年以来カトリック系の教会が建ち、異人の住宅が建てられて、新潟の異人屋敷といえば南山の異人館と共に並び称せられてきた。・・・大正中頃から池はだんだん埋まって小さくなり、中央に通路ができていたが、昭和初年に埋め立てられて住宅街となり、異人池は姿を消して、今ではカトリックの尖塔だけが昔の風景を偲ばせている。(「新潟開港百年史」)■三芳悌吉 著「ある池のものがたり」 (福音館書店・1986年発行 )の舞台になりました。

【どっぺり坂】
■かつてこの坂の上には新潟大学の学生寮「六花寮(りっかりょう)」が建っていました。この坂を降りたところは繁華街で、この坂道はその近道としてさかんに利用され、当時の階段はテストの合格点に1点足りない59段。「あまりにも坂を往来して遊びの度が過ぎると落第するぞ」と言う戒めの意味で、ドイツ語のドッペルン doppelt(二重にする・ドッペルゲンガー)が「どっぺり」となってこの名前がつけられたそうです。■長さ40メートルほどの坂道。高低差約10メートルで、幅員は6メートル。1987年に約1400万円をかけて改装。手すりや人造石の全面舗装、名前の由来解説板などが取り付けられ、現在の形になった。

【金井文化財館(旧金井写真館)】新潟市中大畑町
■金井彌(や)一氏が東京で写真修業を終えた後、新潟で創業した写真館で1887年(明治20年)に建てられた洋風建築(設計者:中島泉次郎)。現在内部は非公開。
 
 

【北方(ほっぽう)文化博物館 新潟分館】新潟市南浜通り2番町562
■新潟分館は、長岡の清水常作氏が明治28年に別宅として建設したものですが、明治末期に六代伊藤文吉が新潟別邸として取得しました。曾津八一は、新潟市内での住居を同氏に依頼し、昭和20年7月25日から昭和31年11月21日に75歳で永眠するまで、ここ新潟分館の邸内の洋館で暮らしていました。建築は新潟市の玉野玉蔵氏、箱庭は後藤石水氏の苦心の作で、館内には秋艸道人(曾津八一)の歌書、良寛の書を多数展示しています。
■国登録有形文化財
http://www6.ocn.ne.jp/~ncm/bunkan/bunkan.htm
http://www.city.niigata.niigata.jp/info/rekisi_bunka/touroku.htm

【新潟大神宮】新潟市西大畑町5195
■1872年(明治5年)の教部省通達によって全国に神宮教会,神宮分教会が組織された。これをうけて新潟市にも神道事務分局(中教院)が開設され,施設が東大畑に置かれた。さらに教院地方本部が置かれて中教院を吸収した。以後,ここを拠点に皇道の布教が進められた。本部の施設は本町通8番町に置かれたが、火災で消失。西大畑の現在地に再建した(明治22年落成)。

【坂口安吾 生家跡】
■坂口安吾(さかぐち あんご ) 本名 坂口炳五(さかぐち へいご)。1906年、新潟市西大畑町に5男として生誕する。父・仁一郎は、衆議院議員。東洋大学 印度哲学科卒業。小説家・エッセイスト 。1955年、脳出血のため桐生の自宅にて死亡した。享年49。■若月忠信の「坂口安吾の旅」(春秋社・1994年発行)によると、邸内の大きさは520坪、母屋69坪、離れ20坪の大邸宅だった。現在は区画整理による道路が通っており、昔の面影はない。

【イタリア軒】
■1874年(明治7年)、新潟にやってきたフランスの曲馬団のイタリア人コック、ピエトロ・ミリオーレが大怪我をし、新潟に置き去りにされてしまい、それを不憫に思ったときの新潟県令(現在の県知事にあたる)楠本正孝が牛鍋屋の店を出すことを勧めました。ミリオーレの手当てをしていた医師・竹山屯(竹山病院初代院長)も援助を惜しまなかったそうです。ミリオーレの牛鍋屋は1880年(明治13年)の大火で消失しましたが、周囲の人々の支援により、日本で最初の本格的な西洋レストランとして再建、名前も『イタリア軒』と命名されました。1976年(昭和51年)に現在の建物を新築し、『ホテルイタリア軒』としてホテル業も始めました。■岡田民雄 著「イタリア軒物語」(新潟日報事業社・1974年発行)

【オギノ通り】新潟市寄居町
■産婦人科医の荻野久作(おぎのきゅうさく)1882―1975■明治15年愛知県に生まれる。明治45年に新潟市竹山病院の産婦人科医長に迎えられ、大正13年(1924)女性の月経の周期と受胎日の関係を明かにした論文を発表し、画期的な受胎調節法として世界に認められた。昭和26年新潟市名誉市民、33年紫綬褒章、41年勲2等旭日光章などの栄誉を受けた。自宅前の通りは、博士の功績を讃え「オギノ通り」と名づけられた。

【西大畑公園】新潟市西大畑町5191
■旧新潟刑務所の跡地に造られた1.6ヘクタールの公園。園内には、かつての西堀をイメージした堀と柳が再現されている春は桜、初夏は花菖蒲が公園を彩る。


【行形亭(いきなりや)新潟市西大畑町578
■創業は、元禄年間。新潟を代表する日本料理の老舗。2000坪の庭園に離れの座敷が13。季節の料理に、柳都新潟ふるまち芸妓が華を添えます
■国登録有形文化財
http://www.city.niigata.niigata.jp/info/rekisi_bunka/touroku.htm
【山菜・田舎料理 妻有】新潟市南浜通1-374
■明治時代に建てられた町屋である染物屋の建物を一部借りて営業している。春の山菜、夏の鮎、秋冬のきのこと、季節ごとの山里で採れるたくさんの恵みを贅沢にお召し上がれます。
http://www.info-niigata.or.jp/gourmet/tumaari/index.html


【旧日本銀行新潟支店長役宅】新潟市西大畑町5218-1
■旧日本銀行新潟支店長役宅は,昭和8年に建設された近代和風住宅です。中廊下によって空間を明確に区分するとともに,二階にも続き間座敷が確保されています。一階続き間の座敷を家族の居間と重ねる構成は昭和期の中廊下式住宅の典型といえます。民家建築のように構造材そのままを見せないので,内部空間自体の表現はおとなしいですが,木材は台湾ヒノキ,スギの良材を用い,要所にいわゆる銘木を用いています。また,建物と同時に築かれた庭園は露地風平庭で,奥庭や勝手庭には砂丘地形とともに砂丘列のクロマツが残っています。前庭・主庭・中庭・奥庭・勝手庭で構成され,伝統的形式美と実用的な機能が明確に区分されています。建築の空間機能と庭の景の連動を強く意識した庭園構成には優れたものがあります。
http://www.city.niigata.niigata.jp/info/rekisi_bunka/rekibunsisetu/plan/plan03.htm

【新潟市長公舎】新潟市西大畑町5927-9
■新潟市長公舎は,中廊下式住宅の典型例の一つで,大正11年に建てられました。中廊下式住宅とは,家の一部に洋風を採り入れた和洋折衷の住宅のことで,中廊下によって間取りが区分され,玄関の脇の一室を板床の洋風応接間とするものです。このような様式は明治末期から大正期にかけて都市の俸給生活者の間で流行したもので,市長公舎は市内におけるその先駆的存在であったとの指摘もあります。また,平成4年に造られた庭園は,川村修就の時代に植えられたと思われるマツ群を残し,海岸砂丘の面影を今に伝えるとともに,枯山水等の伝統的庭園様式と機能的な芝庭を巧みに調和させた,新潟の現代庭園を代表する一つです。
http://www.city.niigata.niigata.jp/info/rekisi_bunka/rekibunsisetu/plan/plan02.htm

【副知事公舎】
■副知事公舎は、俗に「洋館付き住宅」と呼ばれる特徴的な建築で、和風住宅の玄関脇に、外観も内装も洋風の応接室を付加した和洋折衷の住宅形式です。大正から昭和初期にかけて、当時、勃興してきたサラリーマン層を中心に、全国で流行しましたが、副知事公舎は、大正10年に建設されており、恐らく、新潟市で最も古い洋館付き住宅であると考えられます。土地407坪、建物84坪。

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