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■ file 07 峰村家住宅を調査して 大場修
峰村家住宅(新潟市中央区)を調査して
大場修(京都府立大学大学院教授、工学博士)
平入・妻入(ひらいり・つまいり)
●建物の呼び方です。屋根の頂上にある水平な稜線を大棟(おおむね)といい、大棟と家屋の入口との位置関係によって、平入・妻入と呼び分けています。すなわち、大棟と平行な側面(平)に入口がある場合を「平入」、大棟と直角な側面(妻)に入口がある場合を「妻入」といいます。
丁字造り(ていじづくり)
●道路側が平入、奥側が妻入となっている新潟町屋の形態をさします。上空から見た場合に、屋根の棟(むね)が丁字型になっていること、地元での呼称が見当たらないことから、私たちが名付けました。類似の撞木造り
(しゅもくづくり)とは異なり、建物の外形自体は長方形です。元来、妻入文化であった新潟に、表だけでも平入にしたいという意図が働いた結果の産物と思われます。

 道路拡張工事が間近に迫り、主屋は取り壊し直前というタイミングは、この家との実に不幸な出会いである。「新潟まち遺産の会」(大倉宏代表)と共同で行った調査は驚きの連続であった。
 その外観にまず驚いた。トタンで覆われているとはいえ、この町家は茅葺きである。茅葺き屋根は市内では珍しい。上から見ると屋根はL字型で、道に沿った棟と続く土蔵は大正9(1920)年に増築されたものだ。主屋の本体は通りに棟を直角に向けて立つ、いわゆる「妻入(つまいり)」という形式である。中越や下越地方は妻入の町並みの宝庫で、出雲崎の町並みなどはつとによく知られている。
 新潟市内の旧小澤家住宅(市指定文化財)は明治13(1880)年の大火後、再建された町家である。茅葺きで「丁字型」と呼ばれる妻入の変形型である。この地域の町家は古くは板葺きで、石を載せて屋根を押さえる形式が一般的であったが、明治期に入り数度の大火を経て、防火に有利な瓦葺が普及することが当家からは分かる。
 板葺きの町家もすでに消滅した今、茅葺の町家が残るということはたいしたことである。当家が茅葺きなのは、付近にススキなどの茅材が豊富にあったためだろうか。
 内部の調査をして、驚きはさらに増した。入口から細い土間が裏手のみそ蔵まで続いているが、その天井は新しい。調べるともともと天井はなく屋根裏まで吹き抜けていたことが分かった。土間に沿って一列に並ぶ部屋の列も、当初は床の間や押入れはなく、天井も張られていなかった。部屋から上を見上げると茅葺の屋根裏が望まれる、といった状況が建築当初の姿である。はしごで屋根裏に昇ると壁は真っ黒くすすけている。居間にかつては囲炉裏が切られていた、という家人の話と一致する。
 天井がなく、床の間も押入さえない、と書くと粗末な建物のように思われる向きもあろう。実際は、柱は太く上質で、家の中心となる部屋にはケヤキ材を巡らせて部屋を飾るなど、かなり立派で上層の町家であったことは間違いがない。
 要するに当家は古いのである。旧小澤家と比較するまでもなく各段に古く、おそらく新潟市域で最古の町家であろう。正確な建築年代は測りかねるが、少なくとも江戸時代後期にはさかのぼる。古くは造り酒屋であったというが、富裕な商家もかつてはこのような農家然とした、至って簡素な造りであったことをこの家は教えてくれる。
 当家の主屋は、新潟市内にあって町家建築の源流ともいうべきもので、今は失われて想像することすらできない。新潟市域の住まいの原型を伝える、極めて希少な建物ということになる。道路拡張は止められないとしても、移転などしてなんとかこの町家は残せないものだろうか。峰村商店の主屋は、新潟市の町家の歴史そのものだからである。

黒くすすけた屋根裏が、囲炉裏のあった往時をしのばせる
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