町のはじまり

戦国時代の想定図(『新潟市史通史編1』より加工) 写真提供:新潟市歴史博物館みなとぴあ

「新潟」の地名は16世紀(西暦1500年代)に登場します。
今の長野県、福島県から日本海に流下してくるふたつの大河−−信濃川と阿賀野川の河口が、当時は近接した位置にありました(のちに合流します)。新潟はその信濃川左岸にあらわれた港町です。

当初「新方(ニイカタ)」と書かれたことがいみじくも暗示するように、古くより信濃川右岸方面(阿賀野川左岸と右岸)にあった港(こちらは蒲原、沼垂と呼ばれていました)の対岸の「方」に、忽然(こつぜん)と、新しく登場した町でした。この新潟が中世末から近世初期にかけて急成長します。江戸時代には信濃川河口を約60キロさかのぼった場所にある長岡藩に管理される外港(がいこう)となり、県北の城下町新発田藩が管理する対岸の港町沼垂と、今よりはるかに幅の大きかった河口をはさんで向かい合う時代が近代まで続きます。

信濃川岸 明治後期 写真提供:新潟市歴史博物館みなとぴあ

新潟・沼垂合併まで

両大河が運んでくる膨大な土砂は、ふたつの港町が河岸(かし)を構える河口に絶えず中州となって堆積し、洪水のたびに数や姿が変化しました。新潟では河岸が急成長した巨大な中洲に迫られ機能不全におちいる事態が江戸時代初期に生じ、長岡藩は町全体をそっくりその中洲へ移転させます(明暦元年/1655年「明暦の移転」)。その際、町中に舟を導き入れる水路(掘割)が整備されました。堀が縦横にめぐる町の風情や情緒は、港町新潟の町の大きな特色となります。他方の沼垂側も洪水に悩まされ、町全体がごっそり流されてしまうなどの被害も受け、近世に五度もの移転をくりかえし、ようやく貞享元年(1684年)に今の場所(沼垂、蒲原町)に落ちつきました。

西堀  肥やし舟

在りし日の西堀

このように「暴れる水」に接し、現状維持さえ絶えずおびやかされるような場所に、ふたつの町が位置し続けたのは、水上交通が流通の主役だった時代に、そこがなによりも海の道(西廻り航路)と川の道(内水面交通)の結節点であり、物流の要だったためでした。
川水と中洲に隔てられた二つの町が橋でつながるのが明治19年(1886年)。初代の萬代橋は今の倍以上の長さ(781.8メートル)の木橋でした。長年対立した沼垂と新潟は大正3年(1914年)に合併します。

二代目萬代橋 写真提供:新潟市歴史博物館みなとぴあ

 

港と平野

新潟、沼垂の内陸側にはきわめて平坦な、広大な平野が広がり、そこは一面の低湿地帯でした。

中世、近世、近代と営々と開墾、干拓が続けられ、現在の穀倉地帯である越後平野(蒲原平野とも言います)になっていきますが、往時は洪水や湛水に人々が悩まされ続けた土地でした。山岳地帯から流れてくるほとんどの水が、新潟、沼垂でだけ海へ排水される土地の特異な構造を変えたいという願望は平野部でとりわけ強く、近世以来、難工事に難工事を重ね、いくつもの排水路(分水)が開削されます。阿賀野川の現在の河口は享保15年(1730年)に作られた洪水時だけのための分水(松ヶ崎掘割)が翌年の洪水で本流になってしまったものです。平野部のこうした願いと、膨大な水量で水深の深い良港となっていた河口の港町の利害はまっこうから対立し、阿賀野川の分水計画にも新潟町は大反対しています。反対むなしく阿賀野川の河口が分かれてしまい、水量の半減した河口港は、幕末に開港五港のひとつとなった際も、大型船が直接着岸できないというハンディを負うことになりました。

亀田郷湿田地帯 山二ツ地内 本間喜八氏撮影 写真提供:新潟市歴史博物館みなとぴあ

 

こうして減り続けた河口の水量は、大正11年(1922年)に河口から約50キロの地点より近代土木技術の力で開削された大河津(おおこうづ)分水によってさらに激減し、一時は、その後河口近くに計画された最新の分水路(関屋分水 昭和47年/1972年に通水)のみを河口とし、萬代橋周辺の従来の河口部を埋め立てる計画も立てられました。しかし昭和39年(1964年)の新潟地震で地盤の軟弱さが露呈してその計画は頓挫し、その結果旧新潟町は信濃川、日本海、関屋分水の三つの水に囲まれた三角の島のような形状となり、いつからか「新潟島」と呼ばれるようになりました。

大河津分水 写真提供:新潟市歴史博物館みなとぴあ

 

近代の新潟

旧新潟町も旧沼垂町も繁栄した港町の風情を、それでも近代になってもなお色濃く残していました。大正時代の新潟の様子を活写した絵本『砂丘物語』(三芳悌吉文・絵 福音館書店)には、堀と路地と町屋の町新潟に暮らす人々の生活が、生き生きと描かれています。

『砂丘物語』

空から見た新潟昭和23年(1948年)米軍撮影の空撮写真(橋は萬代橋) 出典:国土地理院ウェブサイト

昭和20年(1945年)に終結した第2次大戦では、日本の主要都市の多くがアメリカ軍の空爆により大きな被害を受けましたが、新潟市は大きな空爆がありませんでした(原爆投下候補地だったからだとも言われます)。その結果戦後も戦前の町並みがそっくり残されていました。

『砂丘物語』に描かれた堀は昭和39年(1964年 この年は地震におそわれる前に新潟国体が開催されました)に全て埋められ道路になります。水上交通の衰退に加え、埋められる直前の堀が町全体の地盤沈下(地下水の汲み上げをともなう天然ガス採掘が大きな原因だったと言われています)により水が滞留し臭気の発するドブ川と化していたことも埋め立てをあと押ししました。堀端の柳の下を芸者衆が行き交う柳都(りゅうと)の風情はこうして失われました。

西堀通り

堀埋め立て後の西堀通り

神社と寺と町屋(つまり木造建築)の町である新潟は、たびたび大火に見舞われました。一番最近の昭和30年(1955年)の大火でも、旧市街のかなりの部分が焼失しました。その復興時の再開発で今の目抜き通りである柾谷小路周辺は近代的なビルの町に生まれ変わりましたが、町中には延焼を免れた地区が少なからずあり、柾谷小路から数分歩いただけで、町屋や料亭、お屋敷など歴史を物語る数々のなごりに出会えます。第2次大戦で大きな被害を受けなかった新潟市は、災害をくぐりぬけても、なお多くの歴史的な建物が町中に点在し、新潟の歩んできた歴史を伝えています。

新潟下町(しもまち)旧小澤家住宅周辺の町並み 写真提供:旧小澤家住宅周辺の歴史的町並みを考える会

 

市民の活動

町屋、お屋敷、堀の痕跡、日和山、路地、近世初期以来今の場所に並ぶ寺院群、総鎮守白山神社をはじめとするいくつもの神社、国指定重要文化財である萬代橋(昭和4年/1929年建設の三代目の橋)、昔ながらの花柳界の姿を伝える古町花街、沼垂の市場や酒蔵や味噌蔵や戦後形成された住宅地など、こうした「歴史」を物語る数々の遺産に、強い関心を抱き、さまざまな活動を行ってきたのが、新潟の市民たちでした。

近代化一辺倒で都市計画を推し進めてきた新潟市も、そのような市民の動きに動かされるように、2000年代にいくつもの歴史的建造物を公有化し、公開、活用するようになります。
新潟市の「歴史まちづくり」は、先進的自治体と比べ、まだまだ大きく立ち遅れているのが現状ですが、このような「兆し」が生まれています。(2024/01)

こちらもご覧ください。 第45回全国町並みゼミ新潟市大会(2022)報告書

*第45回全国町並みゼミ新潟市大会(2022)のホームページの「新潟市はこんな町です」を一部追加修整したものです。