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新潟市 旧 會津八一記念館を考える


1994年9月26日 新潟市公会堂の取り壊しを考える(上)   大倉 宏(美術評論家)
 新潟市公会堂の取り壊しが、今年中に始められる予定と聞く。
 白山地区における新しい市民文化会館の建設と周辺整備事業の第一段階が、公会堂(と明鏡高校と白山庭球場)の取り壊しということになる。今年16日から始まった新潟市議会での予算執行の審査を経て、取り壊し工事の発注が行われるという。
 新潟市公会堂がなくなると知った時から、新潟に住む一個人として、釈然としない思いを抱いてきた。今年になって長谷川逸子氏による市民文化会館の計画案が、大きなスペースを割いて新潟市報に掲載されたが、その図面を見て、あるはずの公会堂がないことに気づいたのが最初である。
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 長谷川案は周知の通り、昨年春に審査が行われた、新潟市主催のプロポーザル・コンペティションで1等となったもので、公会堂の取り壊しは実はコンペ実施時点で前提されていたというから、私が気づくのはあまりに遅かったといえるかもしれない。が、そうだろうか。
 市民文化会館の計画について、コンペ実施以前に市民レベルでの議論がほとんど行われなかったことへの批判を、私の周辺でも最近少なからず耳にする。新潟市公会堂の取り壊しに関してもそうした議論がなかったばかりか、取り壊しの計画そのものが、当初ほとんど市民に衆知されなかったというのが事実ではなかったろうか。釈然としないことの第一点は、そのことである。
 私は新潟市に住んでまだ11年にしかならない新参市民だが、このわずか10年あまりの間にも新潟市の建築物は随分変わったという印象をもっている。住み始めた当初、街中を歩いて心引かれた建築、旧県庁、証券取引所、最近では新潟電鉄白山駅前、斎藤邸などが次々と姿を消した。そうした建築の取り壊しに対し、事前に何らかの議論が起こるということも、私の知るかぎりではなかったようで、新参者として奇異の感を覚えた。
 だが今回、新潟市公会堂の取り壊しを遅ればせに知るという体験をして実感するのは、そうした取り壊しが市民に広く知らされる時には、つねにほぼ既定のこととして告げられてきたのではないかということである。言い換えればそれは、起こる可能性のある議論に、あらかじめ水が差されてきたということにほかならない。こう考えると問題は、今回の場合に限られない、建設行政と市民の関係のあり方にかかわることになる。
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 今夏訪ねた岩手県の盛岡市は、新潟市の半分ほどの規模の都市だが、新潟市よりはるかに多くの近代(明治―昭和初期の)建築が市中に残されていた。市は市民や観光客のために古い建築の前に説明板を設置している。城下町のおもかげを必ずしも十分にとどめているとはいえない町に、それでもしっとりとした味わいが漂うのは、豊かな緑と自然の風情を残す川とともに、こうした近代建築の存在が大きいと感じた。ちなみに県庁の脇に建つ岩手県公会堂は、新潟市公会堂より11歳年長(昭和2年完工)の同じ鉄筋コンクリート建築だが、今も現役で使われている。
 建築とは、ある用途に供される(機能的な)モノであると同時に、実は深く表現的な存在でもある。それは設計者という個人の表現であるとともに、施工者(職人たち)の表現であり、さらには設計者や施工者の生きた時代の表現でもある。町中に古い、さまざまな時代の建築が存在することは、そのさまざまの時代が、そこに刻印されているということだ。町に住む人々は、そうした建築との接触によって、市史や町史といった記録よりはるかに生き生きと、その町が通り抜けてきた歴史を実感するのである。
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 公会堂の取り壊しを、新潟市は老朽化のためと説明している。公会堂の機能が、新しい市民文化会館に受け継がれるためという判断も当然あるのだろう。けれど用途の消滅や、老朽化というだけの理由で古い建築を取り壊すことを決める行政の責任者は、そのことで、住民の心中の掛け替えのない生きた歴史をも壊してしまっているのかもしれないということを、はたして自覚しておられるだろうか。
1994年9月27日 新潟市公会堂の取り壊しを考える(下)   大倉 宏(美術評論家)
 新潟市公会堂の完工は、昭和13年11月21日(5月8日、13日等とする資料もあるが誤り)。装飾を廃したモダニズム様式による新潟最初の大建築だった。
 設計は当時の新潟市土木課長杉山鏡介と新潟生まれで郷里に工務店を設立していた長谷川龍雄とされるが、実質的な設計者は長谷川だったようだ。
 当時の新聞記事によれば、二人は設計前に日比谷公会堂をはじめ、名古屋、京都、大阪、神戸などの当時最新の建築を視察している。だが興味深いことに、昭和12年1月6日の新潟新聞には「新潟の公会堂もこんな風の建築」として、京城公会堂(昭和10年完工の京城府民館、設計者不明)の写真が掲載されている。写真を見ると3階建てモダニズム建築で正面左側の時計塔など、新潟市公会堂との共通点が認められる。「建築ジャーナル」誌(1993年7月号)掲載の新潟市公会堂建設の経緯を探る記事は、京城府(現在のソウル)は当時日本の植民地だったが、朝鮮の設計者も活躍していたことから、同館設計者が「日本人でなく、京城の建設設計者であったとしたら日本から移入したモダニズムを逆輸入したことにならないか…」と推理をたくましくしている。
 建設費45万円が全額新津恒吉の寄贈したものだったことは、よく知られる。新津は出雲崎の生まれで、石油業で成功し、一代で財をなした。公会堂の寄贈は、当時の新潟市長(小柳牧衛)の要請によるものだったらしい。しかし、新津は公会堂のほかにもさまざまな社会事業を行っており、企業利益の社会還元について独自の考えを持っていたようだ。新津の足跡を詳しく調べられたことのある藤井昭蔵氏の話では、太平洋側への事業の移転を持ちかけられた時、新津は断わっている。新潟の地に彼が愛着を持ち、将来性を見ていたことは、新潟市旭町の自宅敷地に外国人接客用の迎賓館(現在の新津記念館)を公会堂と同年に建設した事実にも示されている。
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 先日機会を得て、公会堂内外をゆっくり見学することができた。装飾を廃したモダニズム建築とは言うものの、時計塔の意匠や、通用口周辺の段差による装飾、二階ロビーの壁面タイル、電灯の笠といった細部に、モダニズム的な装飾が意図されていることが確認できた。すぐれたモダニズム建築を見慣れた目には、こうした装飾を含め、この建築はやや重く、やぼったく映るかもしれない。だが、その重さややぼったさ(と感じられるもの)の内に、私はモダニズムと軍国主義が交錯しつつあった昭和13年という時代の新潟を、あらためて強烈に感じた。
 公会堂を一級のモダニズム建築であると主張するつもりはないが、どうして決して凡庸な建物ではないとも思う。同じ設計者の建築に、新潟市の第四銀行住吉町支店(昭和2年完工)がある。イオニア式オーダーの石柱を持つ様式主義的建築で、これから見ても長谷川にとって、公会堂のモダニズムスタイルは、新しい、冒険的試みだったろうと推測される。
 創造者として初めてモダニズムに触れる―その手の震えのようなものが、この建築には感じられる。新津翁の篤志という由来もさることながらこうした魅力からしても、これは簡単に壊されていい建物とは言えない。
 老朽化したといわれるが、5年前に2億5千万円をかけて補強工事がなされたばかりで、実見する限り、早急の解体を必要とする傷みようとは思われなかった。多人数を収容するホールとしての使用に無理があるなら、改修して、別用途の建物として再生させるという考えもあるのではないか。公会堂はリノベーション(改修による若返り)の素材としてきわめて魅力的だという建築関係者もいる。
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 新しい文化会館建設の第一歩として、市民レベルの議論もなく公会堂が取り壊されるという事実は、それ自体新潟の文化に兆す暗雲であるように私は感じる。取り壊し手続きは最終段階に入りつつあるが、公会堂はまだ無傷のまま建っている。この56年間公会堂を利用してきた新潟市内外の人々に、建築の専門家も加え、これからでも十分議論がつくされるべきではないだろうか。取り壊しの決定は、それからでも遅くはないはずである。

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